2026-08-29

連載「皇室をもっと知る第2回(全9回)

なぜ皇室は男系を重んじてきたのか

なぜ皇室は男系を重んじてきたのか ―― 制度ではなく歴史から考える

「男系継承は、日本の伝統だ」

皇位継承の議論では、必ずと言っていいほどこの言葉が出てきます。一方で、「それは明治につくられたものにすぎない」という反論もあります。

どちらが正しいのか。それを考えるには、賛否をいったん脇に置いて、そもそも歴史のなかで何が起きてきたのかを見るのが早道です。

先に、この記事の結論をお伝えします。男系による継承は、法律で決められるよりもずっと前から、実態として続いていました。 そしてその背景には、当時の社会のあり方と、皇統についての一つの観念がありました。

なお、「男系」「女系」という言葉そのものについては、「男系」と「女系」は“対”じゃないで整理しています。


まず、事実から ―― 男系による継承は、法律より前から続いていた

意外に思われるかもしれませんが、「男系の男子」という言葉が法律に書かれたのは、明治22年(1889年)の皇室典範が最初です。

  • 明治22年 大日本帝国憲法 第2条 ―― 「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」
  • 明治22年 旧皇室典範 第1条 ―― 「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」
  • 現在の皇室典範(昭和22年)第1条 ―― 「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」

憲法と典範が、同じ年に、そろって男系を明文にしたことになります。

男系は、いつ決められたのか

つまり、それ以前の長い歴史のなかで、男系は明文の法ではなく、慣習として守られていたことになります。

そして宮内庁が公表する歴代天皇をたどると、女性天皇は8方10代おられましたが、その全員が父方をたどると天皇に行きつく「男系の女性」でした。母方だけで皇統につながる天皇――いわゆる女系天皇――は、記録のうえでは一度も現れていません。

書かれたルールがないのに、結果は例外なく同じだった。 ここが、この問題の一番不思議なところです。


理由① 「氏」は、父から受け継ぐものだった

第一の背景は、古代日本の社会の仕組みです。

古代の日本では、人は氏(うじ)という集団に属していました。そして氏は、原則として父から子へ受け継がれます。蘇我氏、物部氏、藤原氏――いずれも父方の系譜でつながる集団です。

その社会のなかで、天皇だけが氏を持ちませんなぜ天皇には姓がないのか)。天皇は氏を「与える側」であり、氏の外側に立つ存在だったからです。

けれど、「血のつながりは父方でたどる」という当時の常識そのものからは、天皇も外れていませんでした。 皇位が父方でつながれていったのは、特別なルールを決めたからというより、当時の社会にとって、それがごく自然な考え方だったから――そう説明されることが多いのです。


理由② 「一つの系統」という観念

第二の背景は、皇統そのものについての考え方です。

皇室では、天照大御神を祖先の神としてお祀りしてきました。神話として語られてきた記述をそのまま史実として扱うことはできませんが、「皇統は祖先から続く一本の系統である」という観念が、長く共有されてきたことは事実です。

そして「一本の系統」を目に見える形で保証するものが、父方をたどれば必ず過去の天皇に行きつく、という条件でした。

前回見た天皇の祈りも、この観念と結びついています。天皇が祖先の神々を祀るという務めは、自分がその系統に連なっているという前提の上に成り立っているからです。


理由③ 王朝が、交代しなかった

第三に、日本と中国を比べてみると、違いがはっきりします。

王朝が代わる国と、代わらない国

中国では、徳を失った王朝は天命によって別の姓の王朝に取って代わられる、という易姓革命(えきせいかくめい)の考え方がありました。実際に、漢・唐・宋・明・清――と王朝の姓は入れ替わっています。

これに対して日本では、王朝の交代が起きませんでした。 権力の中心は、貴族から武士へ、幕府から明治政府へと何度も移りましたが、天皇の系統だけは入れ替わらなかったのです。

言いかえれば、日本では「政権」は何度も交代しましたが、「王朝」は交代しなかった、ということです。ここが中国との決定的な違いでした。

姓が変わらない――というより、そもそも姓を持たない。「取って代わる」という発想が生まれにくかったことが、結果として一つの系統を長く保つことにつながった、という見方があります。


理由④ 危機のたびに、遠い男系を探した

では、直系の跡継ぎがいなくなったときはどうしたのか。

歴史を見ると、答えははっきりしています。遠い傍系から、男系男子を探して迎えました。

跡継ぎが絶えたとき、どこから迎えたか

  • 継体天皇 ―― 武烈天皇に跡継ぎがなく、越前(現在の福井県)から迎えられたと伝えられます。『日本書紀』『古事記』では、この方を「応神天皇の五世の孫」としています。 ただし、応神天皇から継体天皇までの間の系譜は記紀に書かれておらず、史実としてどこまで確かかは、専門家のあいだでも議論があります。 それでも、「非常に遠い傍系の男系男子をたどって迎えた」と記録に残されていることに変わりはありません。
  • 光格天皇 ―― 江戸時代後期、後桃園天皇に男子がなく、閑院宮家から迎えられました。今の天皇陛下は、この光格天皇の直系にあたります。

どちらの場合も、近くにいる女性を通じてつなぐという選択は取られませんでした。かわりに、何代さかのぼってでも父方をたどれる男子が探されています。

このやり方については、皇統の危機を、日本はどう乗り越えてきたかで詳しく扱いました。


では、女性天皇はどう位置づけられてきたのか

8方10代の女性天皇は、この原則の「例外」だったのでしょうか。

そうではありません。女性天皇は、全員が「男系の女性」でした。父方をたどれば、必ず過去の天皇に行きつく方々です。

では、女性天皇にお子はおられなかったのか。そうではありません。お子がおられ、そのお子が皇位を継いだ例もあります。 皇極(斉明)天皇の皇子である天智天皇・天武天皇、元明天皇の皇女である元正天皇が、その例です。

大切なのは、そのお子の父親もまた、男系の皇族だったという点です。皇極天皇の夫は舒明天皇、元明天皇の夫は草壁皇子(天武天皇の皇子)でした。ですから、お子は母方をたどっても父方をたどっても天皇に行きつき、男系は保たれたのです。

つまり、女性天皇は原則の例外ではなく、原則の内側にいたということになります。過去の女性天皇に共通する条件については、過去の女性天皇とは何だったのかで整理しています。


別の見方

ここまで書いてきたことに対しては、有力な反論もあります。公平に紹介します。

  • 「男系は、結果にすぎない」という見方 ―― 男子優先の社会だったのだから、父方でつながるのは当たり前で、「男系を守ろうという意思」があったわけではない、という指摘です。
  • 「男系男子は明治の産物」という見方 ―― 明文化されたのは明治22年であり、それ以前に厳格なルールがあったわけではない、という主張です。実際、江戸時代までは女性天皇も現に即位しています。
  • 「中継ぎ説」への異論 ―― 女性天皇を「男子が育つまでのつなぎ」と説明する見方は、明治以降の政治的な文脈のなかで強められたもので、当時の実態とは違う、という研究があります。女性天皇にも独自の統治実績があった、という指摘です。
  • 養老令「女帝子亦同」をめぐる解釈 ―― これは、古代の法律(律令)の条文をどう読むかをめぐる議論です。律令の継嗣令には「凡皇兄弟皇子、皆為親王。女帝子亦同」という一文があります。これを「女帝の子も同じく親王とする」と読めば、女性天皇の子に地位を認めていたことになり、女系を否定していなかった証拠になりうる、という説があります。一方、「天皇の女子(皇女)も同じ」と読む説もあり、専門家のあいだで解釈が分かれたままです。

いずれも、簡単に切り捨てられる議論ではありません。


筆者の考え

ここからは、筆者の考えです。

「伝統だから守るべきだ」という言い方も、「明治の発明にすぎない」という言い方も、どちらも少し急いでいると感じます。

事実として言えるのは、次の二つだけです。

  1. 明文のルールが置かれたのは明治22年であること。
  2. それ以前も、結果として男系が破られたことはないこと。

この二つは矛盾しません。書かれていなかったが、守られていた。 筆者は、この状態こそが皇統の特徴だと考えています。

明文のルールがないのに、記録に残る限り一度もぶれなかったという事実は、「たまたま」で片づけるには重い。少なくとも、当時の人々がそれを当然のものとして受け止めていたからこそ、危機のたびに遠い傍系を探すという手間をかけたのでしょう。

そう考えると、これは「古い決まりが残っている」という話ではないように思います。かつての日本人が大切にしたかったことが、今も守られている。 そう捉えるほうが、実態に近いのではないでしょうか。条文が守ったのではなく、代々の人たちの選択が積み重なって、この形になったということです。

そして、もう一つ言えることがあります。一度途切れさせた伝統は、もう戻らない、ということです。

途切れたあとに、同じ形をつくり直すことはできます。けれど、それは「続いてきたもの」ではなく、「つくり直したもの」になります。長く続いてきたという事実そのものが価値である以上、その価値だけは、あとから取り戻せません。

そのうえで申し上げれば、変えるかどうかを考えることと、何が受け継がれてきたのかを知ることは、別の問題です。この記事は、後者だけを扱いました。


まとめ

  • 「男系の男子」が法律に書かれたのは、明治22年(1889年)の旧皇室典範第1条が最初。現在の皇室典範第1条も同じ原則を受け継いでいる。
  • それ以前は明文のルールがなかったが、結果として男系が破られた記録はない。女性天皇は歴代で8方10代おられたが、全員が男系の女性だった。
  • 女性天皇のお子が皇位を継いだ例(天智天皇・天武天皇・元正天皇)はあるが、その父親も男系の皇族だったため、男系は保たれた。
  • 背景として、①氏は父から受け継ぐという古代社会の仕組み、②皇統は一本の系統という観念、③王朝が交代しなかったこと(中国の易姓革命との対比)、が挙げられる。
  • 直系が絶えたときは、遠い傍系の男系男子を迎えた。継体天皇(記紀では応神天皇の五世の孫)、光格天皇(閑院宮家から)がその例。
  • 一方で、「男系は意思ではなく結果だ」「明治の産物だ」という見方や、養老令継嗣令「女帝子亦同」の解釈をめぐる対立もあり、議論は決着していない

次回

皇統が一つの系統として保たれてきたことを見てきました。同じように、形を変えずに受け継ぐという考え方は、皇室と深く結びついた場所にも現れています。

次回・第3回は、「なぜ伊勢神宮は20年ごとに建て替えるのか ―― 式年遷宮に込められた意味」。壊してつくり直すことで、かえって同じものが続く――その不思議な仕組みをたどります。


参考・出典