2026-08-31

連載「皇室をもっと知る」第4回(全9回)

なぜ三種の神器は公開されないのか

なぜ三種の神器は公開されないのか ―― 「見せない」ことに意味がある理由

令和元年(2019年)5月1日の朝、皇居・宮殿「松の間」。新しい天皇陛下の即位に伴う最初の国事行為「剣璽等承継の儀(けんじとうしょうけいのぎ)」が行われ、その様子はテレビでも中継されました。侍従が、覆いのついた箱をささげ持って進み、陛下の前の台に置く――映ったのは、それだけです。箱が開かれることは、ありませんでした。 中継を見ていた誰ひとり、中身を見ていません。そしてそれは、その場にいた人たちも同じです。

即位という国家最大級の儀式でありながら、最も重要な宝物だけは、誰にも見せられない。考えてみれば、これは世界でもきわめて珍しい光景です。 三種の神器が公開されないのは、隠す事情があるからではありません。神器は「見る」ためのものではなく、「祀り、受け継ぐ」ためのものだからです。

そして歴史をたどると、見せないことが、かえって神器を神器たらしめてきたことが分かります。三種の神器そのものの基本――何を指すのか、どこから来たのか、今どこにあるのか――には深入りせず、「なぜ見せないのか」を掘り下げます。


一般公開はなく、承継の儀でも箱のまま

三種の神器は、一般公開されたことが一度もありません。展覧会に出たことも、写真が公表されたこともなく、天皇であっても、直接ご覧になることはないと伝えられています。 即位の儀式でも、覆いのついた箱のまま受け継がれ、開けて確かめる手順そのものが存在しません。

剣璽等承継の儀 ―― 箱のまま受け継がれる

承継の儀で受け継がれるのは剣と璽(勾玉)、そして御璽・国璽です。儀式の名が「剣璽等承継の儀」なのは、この「等」に印章が含まれるからです。鏡は、動かしません。 皇居の賢所に祀られたまま、場所を変えないのです。普通の「宝物」の扱いとは、まったく違います。正倉院の宝物は展覧会で公開されますし、国宝の刀剣は美術館で見られます。三種の神器だけが、例外であり続けています。


鏡は「見る」ものではなく、「祀る」もの

なぜ天皇ですらご覧にならないのか。手がかりは、『日本書紀』にあります。天照大御神が孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を地上に降ろすとき、鏡を授けてこう告げた、と記されています。

吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。 ――『日本書紀』神代下(第九段 一書第二)。原文は漢文で、これは一般的な読み下しによる

この鏡を見るときは、私を見るのと同じようにしなさい――いわゆる「宝鏡奉斎(ほうきょうほうさい)の神勅」です。鏡と同じ御殿に住まい、自分を祀るように鏡を祀れ、と続きます。もちろん、これは神話として語られてきた記述であり、史実ではありません。けれど、ここに込められた考え方は明快です。鏡は、天照大御神そのものとして扱え――つまり、鏡は「物」ではなく、神の依り代(よりしろ)なのです。

天照大御神を直接じろじろと見る、という発想がないのと同じように、その依り代である鏡を「見て確かめる」という発想も、ありません。見ないことは、怠慢ではなく、礼儀なのです。伊勢の神宮の御神体である八咫鏡も、式年遷宮で新宮へお遷りになるとき、絹の垣に囲まれて運ばれます。1300年続くあの大祭でも、鏡を見た人はいません。


壇ノ浦 ―― 剣が沈んでも、皇位は途絶えなかった

「見せない」ことの意味を、歴史が試した出来事があります。元暦2年(1185年)、壇ノ浦の戦い。平家が滅びるとき、幼い安徳天皇は三種の神器とともに海に沈みました。鏡と勾玉は、海上で回収されました。けれど剣は、海底に沈んだまま、ついに戻りませんでした。 朝廷は探索させたものの、記録では文治3年(1187年)ごろに事実上打ち切られたとされます。

壇ノ浦 ―― 失われた剣と、続いた皇位

皇位の証が、一つ失われた――当時の朝廷にとって、これ以上ない危機です。実際、壇ノ浦より前に神器のないまま即位していた後鳥羽天皇は、そのことに生涯、強い引け目を感じていたと伝えられます。けれど、沈んだ剣は形代(かたしろ)――宮中に置かれた分身――であり、本体の草薙剣は熱田神宮に祀られたままでした。熱田神宮は、御祭神についてこう説明しています。

熱田大神とは、三種の神器の一つである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を御霊代(みたましろ)・御神体としてよらせられる、天照大神のことです。 ――熱田神宮「御祭神」

御霊代――みたまの依り代です。鏡の場合とまったく同じ考え方が、剣にも当てはめられています。そして朝廷は、記録によれば承元4年(1210年)に伊勢の神宮から献上された剣を、新しい形代と定めたとされます。つまり――「物」としての剣は失われても、皇位は途絶えなかったのです。

もし神器が「この一振りの剣、この一枚の鏡」という物そのものに価値があるのだとしたら、失われた時点で皇位の正統性は崩れたはずです。そうならなかったのは、神器の本質が物ではなく、「受け継がれてきた」という事実のほうにあったからだ、と考えられます。


法律も、「中身」を問わない

現代の法律の扱いを見ると、この考え方はもっとはっきりします。皇位とともに伝わる物の承継について、皇室経済法 第7条は、こう定めています。

皇位とともに伝わるべき由緒ある物は、皇位とともに、皇嗣が、これを受ける。 ――皇室経済法 第7条

三種の神器は、この「由緒ある物(由緒物)」の代表として扱われます。譲位に伴う令和の代替わりでは、天皇の退位等に関する皇室典範特例法 附則第7条が、こう定めました。

皇室経済法第七条の規定により皇位とともに皇嗣が受けた物については、贈与税を課さない。 ――天皇の退位等に関する皇室典範特例法 附則第7条第1項

同条第2項は、相続税法第19条第1項を適用しないことも定めています。注目すべきは、条文が「それが何であるか」をいっさい書いていないことです。鏡とも剣とも書かない。真贋も問わない。ただ「皇位とともに伝わる」ことだけを定めている。国の法律ですら、神器を「検分すべき物」ではなく「受け継がれる事実」として扱っているのです。法律が守っているのは、「どんな宝物か」ではありません。「皇位とともに受け継がれるもの」という、その事実のほうなのです。

法律は神器をどう扱っているか


見せるイギリス、見せない日本

海外と比べると、日本の選択の独自さが際立ちます。イギリスの戴冠宝器(王冠・宝珠・王笏)は、普段はロンドン塔で一般公開されています。運営するHistoric Royal Palacesは、ロンドン塔の見どころとして「Get up close to the Crown Jewels(戴冠宝器を間近で見よう)」と案内しているほどです。そして戴冠式では、国王が実際に王冠をかぶり、その姿が全世界に中継されます。2023年のチャールズ国王の戴冠式も、そうでした。

見せる王室、見せない皇室

イギリスは宝器を見せることで、王権の正統性を万人の目に示します。日本は神器を見せないことで、神聖さを保ちます。即位の儀式でも箱のままです。どちらが正しいという話ではありません。権威の示し方が、根本から違うのです。見せる権威は、壮麗さで人を圧倒します。見せない権威は、「誰も見たことがない」という事実そのものが、神聖さを支えているのです。前回の式年遷宮で見た「建物ではなく、わざを残す」という考え方と、どこか通じるものがあります。日本の皇室は、「もの」そのものに執着しない。残すのは、祀りの形であり、受け継ぐという行為なのです。


別の見方

三種の神器の非公開をめぐっては、こんな見方もあります。学術的な調査を望む立場は、鏡や剣がいつの時代のものか調べられれば、古代史の重要な手がかりになる、文化財としての価値を考えれば、いつか調査の道が開かれてほしい、という意見です。「実在や真贋を確かめようがない」という指摘は、公開されない以上、本物かどうかを議論しても答えは出ない、という立場です。この問いに、確たる答えはありません。

もう一つが、信仰の対象として当然とする立場です。神社の御神体を開帳しないのと同じで、依り代を人目にさらさないのは神道として自然なあり方だ、という考え方です。いずれも、それぞれに筋の通った見方です。


筆者の考え

「見せられないのは、見せると困る事情があるからではないか」――そんな見方も、世の中にはあります。けれど筆者は、順序が逆だと思っています。見せないという作法を千年以上守り続けてきたこと自体が、途方もないことなのです。考えてみてください。権力者が代わるたび、戦乱が起きるたび、「中身を確かめたい」という誘惑は必ずあったはずです。実際、剣は海に沈み、神器なしで即位した天皇もいました。それでも、開けて確かめるという道を、誰も選ばなかった。 確かめない、という規律のほうが守られ続けた。

見せる権威は、見せた瞬間が一番強く、あとは薄れていきます。見せない権威は、見せないまま受け継がれた年月の分だけ、強くなっていきます。 三種の神器の重みは、鏡や剣という物にあるのではなく、「誰も見ないまま、ここまで受け継いできた」という時間の厚みにある――筆者はそう考えています。

そしてこれは、この連載でくり返し出会ってきた形でもあります。誰にも見られずに続けられてきた祈り。理由の文献が失われても続いてきた式年遷宮。目には見えないところで続いてきたものこそが、皇室の一番深い部分を支えているのだと思います。


次回は、皇居がなぜ東京にあるのか

見えないものを受け継いできた皇室。では、その皇室が暮らす場所――皇居は、なぜ今の場所にあるのでしょうか。京都に千年あった御所が、なぜ東京に移ったのか。次回・第5回は、「なぜ皇居は東京にあるのか ―― 京都から東京へ移った本当の理由」。実は「遷都の詔」が出されたことは一度もない、という話も含めて、たどります。


参考・出典