2026-08-15

連載「天皇と靖国神社」第1回(全7回)

富田メモとは何か

富田メモとは何か ―― 昭和天皇「私はあれ以来参拝していない」の真意

2006年、日本経済新聞の一面を飾った「富田メモ」は、今も、皇室や靖国神社を語るときにたびたび引用される資料です。そこには何が書かれていて、そこから本当に、よく言われるような結論が導けるのでしょうか。事実と解釈を分けながら、富田メモを冷静に読み解きます。


元宮内庁長官・富田朝彦氏が残したメモ

富田メモとは、元宮内庁長官の富田朝彦(とみた ともひこ)氏が残したメモです。富田氏は、宮内庁の次長、そして長官を務めた人物で、昭和天皇の側近として、天皇と交わした会話や、天皇の発言を、几帳面に書き残していました。その手帳や日記が、富田氏の没後に遺族のもとで保存され、2006年(平成18年)7月、日本経済新聞の報道によって、その一部が世に知られることになりました。つまり、これは「富田氏が残した記録」であり、この点が、のちの解釈の分かれ目にもなります。


メモに書かれていたこと

報道されたメモには、昭和天皇が靖国神社への参拝について語ったとされる内容が記されていました。よく引用されるのが、「私はあれ以来参拝していない」という趣旨の言葉です。そして、このメモには、松岡、白取という具体的な名前が挙げられていた、とされます。

松岡は元外務大臣の松岡洋右(まつおか ようすけ)、「白取」は元駐イタリア大使の白鳥敏夫(しらとり としお)を指すと考えられています。二人とも、A級戦犯として、のちに靖国神社に合祀された人物です。なお、引用は、著作権にも配慮し、必要最小限にとどめています。

「あれ」とは何を指すのか

「あれ以来参拝していない」の「あれ」が何を指すのかを考えるには、前提となる年を押さえておく必要があります。1975年(昭和50年)は、昭和天皇が靖国神社に親拝された最後の年です。1978年(昭和53年)10月には、いわゆるA級戦犯が靖国神社に合祀されました。この二つの年は、報道でもしばしば触れられます。2025年3月の衆議院厚生労働委員会でも、「天皇陛下が靖国神社に御親拝した最後は昭和五十年、一九七五年。以来、御親拝は途絶えております」と述べられています。

「あれ」が合祀を指す、という読み方が、報道以来、最も広く共有されてきたものです。ただし、最後の親拝と合祀のあいだには、三年の開きがあります。 この事実も、あわせて知っておきたいところです。


日本経済新聞が一面トップで報じた

2006年7月20日、日本経済新聞は、このメモを朝刊の一面トップで報じました。「昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感」という見出しです。この報道は、他紙やテレビにも広がり、大きな反響を呼びました。そして、この「昭和天皇はA級戦犯合祀に不快感を抱いていた」という理解は、今も広く知られています。ここで確認しておきたいのは、あくまで「そのように報道され、受け止められた」という事実です。


富田メモの二つの読み方

富田メモの読み方には、大きく分けて複数の解釈があります。どちらかに誘導することなく、公平に並べてみます。一つは一般的な解釈で、昭和天皇はA級戦犯の合祀そのものに不快感を抱いていた、という読み方です。報道以来、最も広く知られている解釈です。もう一つは別の解釈で、メモで名前が挙がっているのが松岡洋右・白鳥敏夫という特定の人物である点に注目する読み方です。A級戦犯一般ではなく、この二人への評価が背景にあったのではないか、という見方です。

この二つは、似ているようで、意味するところが違います。どちらが正しいかを、このメモだけで決めることはできません。だからこそ、両方を知っておくことが大切です。

富田メモをめぐる、二つの読み方


松岡洋右と白鳥敏夫という二人

なぜ「松岡・白鳥」という名前が意味を持つのか、二人の人物像を簡単に整理します。松岡洋右は元外務大臣で、日独伊三国同盟の締結を、強力に推し進めた中心人物です。白鳥敏夫は元駐イタリア大使で、外交の面で、枢軸国との連携に深く関わった人物です。

ここで、一つの背景が浮かびます。昭和天皇は、日独伊三国同盟には慎重な姿勢だったと伝えられています。もしそうだとすれば、その同盟を推進した人物への思いが、メモの言葉の背景にあった――という見方も、成り立ちうるわけです。ただし、これも一つの解釈にとどまります。


なぜ解釈が分かれるのか

富田メモの読み方がこれほど分かれる理由は、この資料の性質にあります。メモは録音ではありませんし、発言の全文でもありません。あくまで、富田氏が書き残した記録です。つまり、私たちが目にしているのは、昭和天皇の言葉そのものではなく、それを聞いた富田氏が、要点を書きとめたものです。前後の文脈や、正確な言い回しまでは分かりません。だからこそ、このメモだけで昭和天皇の真意を断定することは、できないのです。

なお、富田メモの内容を裏づけるとされる資料として、当時の侍従の日記(卜部亮吾〈うらべ りょうご〉侍従日記)の存在も知られています。複数の資料を突き合わせる作業は、今も続いています。


評価は、今も一つに定まっていない

富田メモをめぐる評価は、一つに定まっていません。一方で、報じた日本経済新聞は、2014年の記事で「その後、複数の資料が裏づけ、今では昭和天皇研究の定説となっている」という趣旨の説明をしています。他方で、メモの読み方や資料としての扱いには慎重であるべきだ、とする立場もあります。資料としての価値を認める立場と、慎重に扱うべきだとする立場があり、ここではどちらかに立つことはせず、見方が分かれている現状そのものを、そのまま押さえておきます。


断定を避け、複数の解釈を比べて読む

筆者は、富田メモをもとに「昭和天皇はA級戦犯そのものを嫌っていた」と断定するのは、慎重であるべきだと考えています。2006年、日本経済新聞は、このメモを「昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を示した」と受け止められる形で、大きく報じました。この報道は、今も広く知られています。けれど、メモのなかで具体的に名前が挙がっているのは、松岡洋右氏と白鳥敏夫氏です。

この点を重く見る論者は、「昭和天皇は、A級戦犯一般ではなく、松岡氏や白鳥氏という個人に強い不快感を抱いていたのではないか」と説明します。松岡氏は、昭和天皇が慎重だったとされる日独伊三国同盟を推進した中心人物であり、白鳥氏も外交政策に深く関わった人物でした。

もっとも、これも数ある解釈の一つであり、富田メモだけで昭和天皇の真意を断定できるわけではありません。筆者は、歴史資料は、一つの見方だけで結論を出すのではなく、複数の解釈を比べながら読む姿勢が、何より大切だと考えています。


参考・出典